気持ちがカタチになる。
これはいろいろなものに当てはまると思います。
一つは宗教に絡むもの。
私は常々神や仏の存在を信じていません。
仏像にしても、織田信長が言ったように単なる石や木、金属の塊と思っています。
様々な仏達も、人が考え出した産物で、仏像は偶像に過ぎないと。
という事で仏像に願をかけるという事もしません。
しかしながらその仏像は仏師が作ったもの、僧が作ったもので、
作者の気持ちがカタチになったものだと思います。
薬師如来なら薬の力によって人々を救いたい、そういう作者の慈悲の気持ちが
仏像というカタチに表れているのではと。
私にとっては仏像は信仰の対象ではなく、仏教美術としての鑑賞の対象なんですね。
こういう考えですから、石の地蔵様は姿を変えて助けに来てはくれないでしょう。
それでも釈迦牟尼が考えた仏の道についてはとっても興味があります。
また、太鼓の演奏も同じことが言えるようです。
演者の気持ちが音になりカタチになる。
気持ちが入っていない演奏からは伝わって来るものがありません。
太鼓に限らず、音楽や演劇、食べ物なんかもそうなんじゃないかと思います。
茶道や華道も、気持ちがカタチになったもの、と思いますが
ややもするとそのカタチそのものを大事にしちゃうという落とし穴も。
いわゆる形骸化というヤツですね。
信仰の気持ちが無いのに神社仏閣にお参りする、のも形骸化・・・。
いやあ、宗教はムズカシイ・・・。