HAPPYの非日常茶飯事な日々

日々の川柳や和太鼓などについて語ってまいります。

仏陀に教わる

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仏教=仏の教え? 私の仏教の解釈は仏陀に教わる、、、です。

私の中に、そもそも仏教とは?という大きな疑問がず~~~っと存在し続けています。

若い頃、一丁前に人生に悩み(いやいや今でも十分迷っている?)、仏教にとても興味を抱いてあれこれ書物を紐解いたり・・・。

そうこうしているうちに日本の抹香臭い仏教ではなく、仏教の源と思われる原始仏教に行き着くわけです。

 

 そんなある日、とある本の中に、仏教を本当に知りたいのなら仏教に帰依しないとわからない、という一説をみつけ、そこで私の仏教探索は暗礁に乗り上げてしまいます。

知る事と分かる事の違い、頭で理解するのと心で納得する違いのようなもの、後者が信仰で仏教=宗教であるならば、無信仰の自分には仏教に帰依する事は到底無理だわいなあ、と悟ってしまったというわけです。

仏徒・仏陀・ブッディスト=budd・budder・buddistの如く信心によって仏教の最上級にはなれないちゅうことです。

 そんな事もありながら、そもそも日本の仏教は本当にお釈迦様が説いた教えそのものなんだろうか?という素朴な疑問を持ちつつ今に至っています。

日本の仏教は仏陀に源を発しているけれど、随分と変質もしてしまっているのではなかろうか・・・。

 

ここで日本仏教のカタチについてあれこれ調べた事をにわか知識として書き記してみます。

江戸時代、社会の安定とともに幕府は民衆支配・戸籍掌握の方法として檀家制度を確立し、寺は檀家の葬祭供養の一切を取り仕切るようになりました。その結果、確実な経済力と権力を持つようになります。

ウィキペディアによると檀家は檀越(ダンオツ)の家の意で、ダンオツはサンスクリット語ダーナパティの音を漢字に置き換えたものでダーナは庇護者の意味なんだそうな。

ダーナ檀那=旦那で、これで旦那は太っ腹のパトロンの意がある事が理解できます。

 

壇蜜という名前のタレントがいますが、ちょいと調べてみるとやはり仏教からの命名なんだそうな。

般若心経の冒頭に般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)と蜜の字があてられています。ちなみに般若はサンスクリット語のパンニャーの漢語で智慧の意味なんだそう。ついでに波羅蜜多サンスクリット語パーラミターの音にあてた漢語。

パーラミターの解釈もパーラミ・ター(最高の)とパーラム・イター(悟る)の二つがあるようです。解釈の仕方でいろいろな意味が生まれます。

後世、いろいろな解釈がなされ、それによって〇〇派というものが成立するのはどこの世界でもよくある事です。

 

話を戻しましょう。

江戸時代、檀家を持つ寺は組織化され、末寺は本山に上納金を納めるため、その資金源を葬祭供養から捻出する制度が確立され、その結果葬式仏教と揶揄されるものになったようです。葬儀の時に意味のわからない難解なお経をあげ、戒名にもなぜか高い安いの差があり、苦しみ悩みを持つ衆生のためではなく、死者のための儀式を行うのが生業の仏教になってしまったのではなかろうか・・・。

 

一方で檀家を持たない寺はその資金源を民間信仰と結びつく現世利益を施す事に求め、無病息災・家内安全・商売繁盛・学業成就・交通安全・病気平癒等々を前面に押し出してその対価を得るようになりました。

西欧でカトリック教会の腐敗ぶりに抗議してプロテスタントが生まれたように、仏教界の堕落への反発として明治期の廃仏毀釈運動にはずみをつけたともされています。

 

現代の日本の仏教、どうなんでしょう。