非常事態宣言が発出され、家に籠る日々。
この発出という言葉も初めて耳にしますが、強制力がないので発令ではない模様。
事故ではなく、事象と言うのと同じで、責任が問われないようになっているようです。責任を問うという事で思い出しましたが、アメリカ人がコロナ禍の責任は中国にあり、と訴えた件はその後どうなったんでしょう。
写真は生活に必要な行動をしようと近所のスーパーに行った時のもので、すっからかんになったパスタ類の棚。
見た目の商品が少なくなると小パニックに陥って、ついつい買いに走る心理が働くものと思われます。
心が不安感でいっぱいの結果、棚はからっぽに。
世界中が国を挙げて新コロナ禍と戦っています。
不安がいっぱい、新コロナウィルスもいっぱい。
世の中の動きが止まって、経済的な心配が取沙汰されています。
ものや人が動かないとカネも回らない。
今更ながらいかに経済中心の世の中なのかを痛感します。
同時に世の中の大半が不要不急の経済活動で成り立っているのも見えてきたりします。
かつて世界で一番シアワセな国とされたブータンがどういう状況になっているか知る由もありませんが、物質的満足ではない国づくりを標榜したものだと思われます。
資本主義の世の中は、使うためのカネを稼ぐのが目的になっちゃって、何がシアワセなのかを置き忘れてきたような気がします。
スーパーの棚のように一度人類の心を空っぽにする、というのもあってよいのかも知れません。空っぽの棚の前では両手におカネを握りしめていても意味がありませんカラ・・・ッポ?!
あ、そのおカネで棚は買えるか、買っタナ~という充足感でシアワセになれる???