篠笛。
竹に六つもしくは七つ孔を開けただけのシンプルな楽器。
(正確に言うと唄口を入れると孔が一つ増える)
日本の楽器で日本の旋律を奏でる。
ごくごく当たり前の事。
先日、笛のライブを行っていろいろ学ぶ事ができました。
相棒は、和の笛で和の音を出すのは当たり前だからつまらないという。
リズムやアンサンブルがあった方がいいとも言うけれど、私はちょっと違う事を考えています。
私が笛を始めた動機は物凄く単純で、月の下で一人、しんみりと笛が吹けたらよいなあという憧れからでした。
日本の笛にはそんな光景が似合っていると思うのです。
日本の音楽は間を大切にするもの、西洋の音楽は間を埋めていくもの、という認識が私にはあります。
西洋人には間が空いているのは未完成に通ずるという恐怖感があるのかも知れません。
音楽にしろ、絵画にしろ、極力間を詰めていく、埋め尽くしていく。
それに対して日本の墨絵は何も描いていない白紙の部分にも実は絵が描いてある以上に大切な意味を持たせてあるような気がします。
私は日本の笛に、そういう墨絵みたいな音を出してみたいと無謀な想いを巡らせているのであります。
源義経や平敦盛は戦場に愛用の笛を持参したという。
一人吹く笛の音に、戦であらぶった心を収めたのかも知れません。
伴奏もない孤高の笛の音は、夜の合戦場の闇の中にうずくまる敵味方の兵どもの耳に届いていたのかも知れません。
明日は刃を合わせるもの同士でも、今宵は人として命をいつくしめばよし、と思って吹いていたのかは皆目見当がつきませんが、そういう笛は一人で吹けるもの。
聴衆が自分一人の笛を極めてみたい、これが私の密やかな野望であります。