遠い親戚が亡くなった。
お葬式に行って来た。
参列者は12人ほど、ひっそりと。
式が始まり、読経の中御焼香タイムである。
式は一時間と定時間で、参列者が少ない。
結果どうなったかというと通常は一度の焼香タイムがもう一度・・・。
さすがにこれは拒否。
お坊さんの意味不明のお経が続く。
これを聴き続けるのは一種の苦行だな。
こちらからすれば馬の耳に念仏・・・。
元来仏の教えは死者のためではなく遺された生きた人へのもの。
俗な人間にはわからない読経は葬儀の一種の演出なのかも知れないな。
儀式をあげる事に安堵するための。
儀式は儀式で存在価値はあるものだとは思いますが。
さて、遺体は焼き場に。
会食の後、収骨場へ。
まずは喉仏が真っ先に取り出された。
焼き場の人はこの喉仏をきちんと焼くのに命をかけているのだろうか。
まずは二人一組で骨を竹箸で骨壷に納めて行く。
こういう形式がいつ、なぜ確立されたのか興味がわくところ。
次に係り員から頭骸骨の各部の説明がある。
この説明がなぜ必要なのか理解に苦しむところである。
下あご、上あご、両耳、目、と一つずつ解説付きの納骨作業。
最後によけてあった喉仏を納めて終了。
実に手際がよい。
死は誰にも平等に訪れる。
不滅なのは死を扱う産業だけなのかも知れない。