HAPPYの非日常茶飯事な日々

日々の川柳や和太鼓などについて語ってまいります。

日本道中:八丈島

八丈島は東京から南へ約280kmの太平洋に浮かぶひょうたん型の島で
山手線の内側と同じくらいの広さ、ここに約9000人の人が暮らしています。

東京竹芝桟橋を夜10時半に出航、東京湾の夜景を眺めつつ島を目指します。

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こちらは羽田沖、空中に小さな光の点が4つありますが、
着陸してくる飛行機たちです。文字通り数珠つなぎ、
夜間飛行は時間が限られているため次々と駆け込み着陸!?

こちらは二等船室。
壁には窓風のしつらえがありますが、鏡張りの飾りです。
なにせ二等船室は船底ですから・・・。
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8人部屋ですが平日のため行きは二人、帰りは一人占めでした。
従来の大部屋は廃止、すべて指定席となっています。
一つずつ無料のロッカー完備、衝立があるのもありがたいですね。
床はカーペット敷きですが、これがとても硬く、寝るのには辛い・・・。
貸し出し毛布(100円)を二枚借りて床に敷くのがオススメ。
テレビ(BSのみ受信)があります。


途中、朝4時半頃三宅島に寄港、5〜60人ほど下船、
ケージに入ったペットが一匹積み込まれた以外流石に乗ってくる人はゼロ。
貨物の積み下ろしが終わると八丈へ向けて出航です。
夜の海を切り裂くようにサーチライトが照らす光景。
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一夜明け、甲板に出ると八丈島の島影が。
その昔、風だけで走る船でかの地に流された流人の気持ちはいかばかりだったでしょう。
右に見える小さな島は今は無人島となっている八丈小島です。
正面が八丈富士、左が三原山、ひょうたん型の島はひょっこりひょうたん島のモデルなんだとか。

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底土港に到着、途中海が荒れて御蔵島に接岸できなかったため予定より早めに上陸しました。
車でピックアップしてもらうため、レンタルスクーター屋さんに電話を入れます。
8時半から営業しており、船に合わせての日常となっているようです。
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船影は橘丸、5681t、3代目となる本船は2014年に就航と新しく、
ディーゼルと電気のタンデムハイブリッドエンジン搭載、
スーパーエコシップで静音性もあるとのことでしたが
睡眠中、なぜか爆撃された夢を見たのはものすごい音が原因かも・・・。


港に置いてあった車のスクラップ。
島は潮風で車の寿命も短く、その成れの果てがこれです。
車一台丸々、四角い形に圧縮されてました。
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港の防波堤には島言葉とショメ節の歌詞が書かれておりました。
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沖で見たときゃ鬼島と見たが来て見りゃ八丈は情島 あ〜ショメショメ♫

江戸時代、大海原を超えて木造船で島に送られた流人の心境がわかるような気がします。
流罪になったものは1800人近く、
その第一号は関ヶ原の戦いで西軍の副大将であった宇喜多秀家とされています。
八丈島に流され彼の地で84歳で没したという事ですが、
罪人といえど政治犯のため、島に都の文化を伝えたという側面も。

また八多化(ヤタケ=八丈の事)の寝覚草(ネザメグサ)という記録書を残した
鶴窓山人(帰山)は伊豆の農民で、人を殺めたため流罪になったそうで
この記録書の中には当時の八丈島の言葉や風俗が細かく書き記され、
挿絵もついているので研究書として価値が高いとされています。

同時代にやはり人を殺めて流罪になった近藤富蔵なる武士は八丈実記という記録書を残し、
八丈島はおろか伊豆諸島や小笠原諸島の歴史、風俗、
文化を研究する上で貴重な資料となっています。

よく、八丈太鼓の起源として、島に流された武士が刀をバチに代え、
その無念を晴らすため太鼓を打ち鳴らしたという話を聞きますが、
これは流人の島というイメージからくる短絡的な作り話だと思います。

武士の地位は高く、島に流されたとはいえ武士が太鼓を叩くという行為は考えにくい。

八丈島では米の収穫量がわずかで、年貢として絹織物の黄八丈を幕府に納めており、
その織り手である女性の立場は尊重されていたと言われます。
その女性たちが娯楽として太鼓を叩いて楽しんでいたことは頷けます。
先の八多化の寝覚草には松の木に吊るした太鼓を叩く二人の女性と
太鼓に合わせて丸くなって踊る人々の姿も記されています。

八丈島では当時から太鼓が身近な娯楽として存在していたのではないでしょうか。