この駅名、以前の松山町からこの8月に改称され、観光客にわかりやすくなりました。
敷地には 何やら左右対称の建物の跡らしきものが残されています。
案内板によると長崎刑務所浦上刑務支所があったところと言う事が判明し、遺構の意味がわかります。
長崎の爆心地に近く(100m)、刑務所は収監者職員もろとも一瞬にして消滅、
その中には抗日運動家の朝鮮人や中国人も45人いたとのことです。
後になって海側のグラバー邸や大浦天主堂が被害を受けずに残っていることを知りました。
当時の町の戸籍も展示されていました。
原爆投下側には単なる場所でしょうが、一軒一軒住人の名前が書かれているものを見ると
そこには暮らしがあったことが胸に迫ってきます。