仏教はいつから死者のためのものになってしまったのでしょうや。
一般には死者を弔うためにお経をあげるものとされていて、法事などでお坊さんがお経をあげますが、あれは一体誰に向かって唱えているのでしょう?
意味をわかって聴いている人がどれほどいるか疑問です。
お経はサンスクリット語やパーリ語の経典が中国に伝わり、音訳が漢字にあてはめられたもの、そのままでは理解できる人はいないんじゃないかと思われます。
難解なお経を意味なくありがたがる(意味が分からないからありがたる)みたいなところがあるのかも知れません。
死者を弔うという行為は生き残った人々の気持ちを整理するために行われるんじゃないのかと思います。
死んでしまったらそもそも感じる主体が消滅してしまうのだからなんも感じる事はできないかと。
霊魂なるものが存在するというのは生き残った人々の願望としか思えません。
霊魂を霊魂として知覚するのは生者のみ。
霊魂が存在するとしたら生者の気持ちの中にのみあるんじゃないかと。
この世はもちろんのことあの世のことを理解できるのは生きている人だけでしょう。
死んでしまうとそこで物理的なすべてのものは消滅してしまいます。
精神的なものが遺るとしたらそれは生者の記憶の中にだけで、その記憶を持った人が亡くなれば消えていく運命にあります。
でもそれも極々自然な事で、死ぬことは当たり前の日常茶飯事。
ま、本人にとっては生まれてくる事と同じレベルの一生に一度しかない一大イベントではありますが・・・。
人でもペットでもその死は生き残った人を嘆き悲しむ立場にさせますが、生き残った人の気持ちを整理するのが本来の仏教の役割かと。
死者ではなく生者が成仏できるようにがんばるのが仏教のあるべき姿かと思います。