HAPPYの非日常茶飯事な日々

日々の川柳や和太鼓などについて語ってまいります。

信仰

アベ射殺ではからずも旧統一教会自民党議員のズブズブの関係が明るみに。

党の領袖が反社会的宗教団体と癒着していたのだから穏やかな話ではありません。傘下の議員連中は当然右へ倣えってえもんでしょう。

そういうことをきちんと検証せずにやみくもに国葬、賛成しかねます。

 

ここは政治といかがわしい宗教団体とは是非に決別しておくんなさい。

公明党は静けさを保っているけれどダイジョブなん?

 

それにしても改めて宗教、信仰とはなんなのか考えさせられます。

 

私は若い頃から仏教に興味関心があり、いろいろ本も読みました。

 

ブッダ、過去に実在した釈迦牟尼は「生きる」という命題で当時の人々に多大な影響を与え、死後、彼を慕う人々から仏教の始祖として祀り上げられたのだと思います。

人として生きた等身大のブッダに個人的親しみを覚えます。

 

ブッダの死後、後世の人々によって仏教と言う大系が整備され、三千世界や極楽地獄のイメージ、如来や観音、菩薩、天部、曼陀羅の世界観が創作されていったと思われます。

お寺には本尊として大日如来や千手観音、不動明王など安置されていますが、それらは長い年月をかけて出来上がった想像の産物と言えるのかと。

裏返して言えば人々の不安や希望という精神世界を集約した体系、それを表した偶像が仏像ではないかと考える次第です。

 

スリランカに仏歯寺という釈迦の歯を祀っているお寺がありますが、そこを訪れた際、朝、暗いうちからもの凄い数の信者がお参りしていました。

確かに釈迦の歯は希少な存在ですがそのものに価値や神秘的な力があるとは思えません。

モノには価値がない、モノに捉われてはいけない、という釈迦の思想を思い起こすツールとしての価値はあると思います。

 

私は信仰と言うものは持っていません。信仰を持つ事自体が捉われる事につながるのではとひねくれた考えを持っているので。

 

統一教会の説く、心にサタンが入るというのも信仰に捉われていると。

 

万能の神、世界の創造主が神の姿に似せて人を創りたもうた、と信じている人もいるようですが、人が自分の姿に似せて神や仏を作り出した、というのが正解だと考えています。

 

世の中見渡してみると、心を開放すべき信仰に逆に縛られた人々がけっこういるのではと。

 

信仰の自由、とよく言われますが信仰から自由であってもよいと思う次第。

 

先祖のためにバカ高い壺は決して買いません。

 

高い壺 買えば教祖の 思う壺