HAPPYの非日常茶飯事な日々

日々の川柳や和太鼓などについて語ってまいります。

あらしのボートレース

「あらしのボートレース」は1957年の5月、墨田川で行われたレガッタ早慶戦の模様を描いた作品で、1961年から1970年までの小学校6年の教科書にも掲載されていたものです。

全文紹介すると

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「あらしのボートレース」

昭和32年5月12日、伝統の第26回早慶ボートレースが行われました。
前夜からの雨は、まだやまず、さらに、春特有の強風に加えて、隅田川の水面には、かなり大きい波が立っていました。

この一戦に備えて、早稲田・慶応の両大学ボート部の選手たちは、長い間、はげしい練習を重ねてきましたが、試合前の予想では、慶応の勝利がほとんど確実であると見られていました。
というのは、慶応のボート部は、その前年のメルボルン・オリンピック大会にも参加しており、その時の選手の一部が、まだ残っていたからです。

しかし、この悪条件では、勝敗は、はたしてどうなるかわかりません。

慶応のかんとくは、レースに先だって、選手たちに言いました。
「みんな、全力をふりしぼってこいでくれ。この波では、ボートの中に、水がはいってくるかもしれない。しかし、ボートレースというものは、あくまでも、みんなが力をあわせてこぎぬく競争だ。もし、はいってくる水に心をうばわれて、ふだんの練習の力を出せなかったら、相手の選手に対して失礼なことだ。どんなに苦しいことがあっても、力いっぱい戦うことが、スポーツマンにとってたいせつなことなのだ」

一方、早稲田のかんとくは
「たとえ、試合には負けても、けっして、ボートをしずめてはならない。ボートをしずめることは、ボートマンにとって、もっともはずかしいことだ。きょうは、波がたいへん高い。もし、ボートに水がはいってきたら、4人でこいで、残りの4人は水を出してもいい。みんな、最後までがんばって、ボートをしずめないでくれ」
と言って、各選手に、水をくみ出す器をわたしました。

スタート直後、両国橋付近までは、予想通り、慶応が、だんぜんリードしていました。
かさをさして試合を見ていた観衆も、ほとんど、その勝利を信じていました。

ところが、蔵前橋を過ぎるころから、慶応のボートは、しだいにおくれ、早稲田が、じりじりと、差をつめ始めました。
慶応のボートには、だんだん、水がはいって、ついには、選手のこしをぬらすほどになってしまったのです。

それでも、選手たちは、誰ひとりオールを放さず、力いっぱいこぎ続けました。
しかし、ついにゴールにははいれず、ボートはしずんでしまいました。

早稲田のボートでは、水がはいってくると、何人かの選手がくみ出し係になって、はるか前方を行く慶応のボートの速さに、くちびるをかみながらも、少ない人数でこいでいました。
しかし、しん水で速力のおとろえた慶応を、駒形橋の近くで追いぬき、勝敗は逆転したのです。

ところが、岸に上がった早稲田の選手は、しんぱん長に、試合のやり直しを申し出ました。
「これは真の勝利ではない。この悪天候では、ほんとうの力は出せない」というのです。

しかし、しんぱん員の相談の結果、申し出は採用されず、早稲田の勝利と認められました。

慶応の選手たちは
「試合に対する準備が足りなかったのだから、早稲田の勝利は正しい。明らかに負けたのだ」と言って、早稲田の勝利に、心からの拍手を送りました。

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引用:あらしのボートレース - 外苑茶房 (goo.ne.jp)

 

いろいろ調べてみると慶應のボートは沈みましたが面白い事実も浮かび上がってきます。

レガッタは8人が漕ぎ手、一人が舵で9人が乗り込んで競うボートとのこと。

早稲田の監督は水をかき出すためのアルミ容器を準備させてレースに挑み、途中4人~2人がオールを容器に持ち替えて水をかき出して沈没をまねがれたとの事。

一方慶應の監督も水かき用の空き缶を持ち込む提案はしたようですがこれがかなわず、途中、シャツを使ってボートにたまった水を絞り出したとの記録もありますが、結局沈没。

 

早稲田、慶應とどちらがスポーツマンシップに則った行為なのか、当時の小学生はボートレース同様に論議で激戦を交わしたものと思われます。

 

しかし、現代の視点から眺めてみるに、嵐という悪天候下でレースを強行した主催者側の責任問題が追及されるのではと。

好天での再試合と言うのも大会経費や法的手続きでおいそれとは行かないという現実的な問題も絡む事でしょう。

森会長の女性蔑視発言で荒れに荒れている東京オリンピック2020の開催問題とダブって見えるような気もしてきます。