乾麺でかけそばを。
つゆは醤油、みりん、酒。
日本の食の味の基本はこの醤油、みりん、酒が三種の神器ではないかと思います。
ものによってはこれに鰹節や昆布のうまみを足せば鬼に金棒。
そういえば、一杯のかけそばというお話が一世を風靡したことがあります。
貧しい親子3人が一杯の年越しそばを分けあって食べる、という事しか知りませんでしたが、検索してみるとあるはあるは。
【泣ける朗読】 「1杯のかけそば」 何度聴いても涙が止まらない話し ~涙腺崩壊ちゃんねる~
今回その全文をyoutubeで確認してみました。
1988年の年末にラジオ放送された「実話」とされる童話で、涙なしには聞けない内容に一大ブームを巻き起こし、映画化もされたそうな。
その後、作者の不祥事の数々が発覚、実話とされた感動のお話も「実は」作り話だったとされ一気に熱は冷めたもようです。
今でもこの話の「価値」についてネット上では話題にされているようです。
作品と作者の関係は不問にふし「いい話」としての肯定派と作者も内容も「詐欺」としての否定派、に分かれるようです。
今回初めて全文に触れてみましたが、やはり創作臭さがつきまといました。
現代版「落語の人情噺」のような・・・。
ブームのさなか、タモリが当時150円のかけそばを三人で分け合って食べるほど貧しくてもインスタントのそばなら三つ買えた、涙のファシズム、と断じブームの終焉に一石を投じたそうな。
ま、年越しそばをインスタントなどではなくちゃんとした店で分け合ってでもおいしく食べたい、という動機は否定できないのではと思います。
引っかかったのは、父親が交通事故を起こし、多額な借金を負ったこと。
自らハンドルを握る仕事をしていたのならいくらなんでも自賠責保険のみという事は非常識極まりない事ではないのかと。
また、その借金を完済した年の暮れのお祝いに、頼んだかけそばが二杯だったこと。三杯分の余裕さえなかったのか・・・。これはいかにも話を作っているという不自然さを感じますがな。
また、子供が語る夢として、ありがとうと言ってもらえる日本一のお蕎麦屋さんになる!と涙を誘っておきながら銀行員になってしまった弟・・・。
思うに、実話として語ったところに問題があったわけで、はなから創作としておけばよろしかったのではないかと。ま、人々は実話というところに警戒感をはずしてしまい、美談として支持しちゃうみたいなところもあるので、創作としていたらあれだけのブームにはならなかったのかも知れません。
作者の行状については感心しませんが、人物と作品は必ずしもリンクしなくてもよいのではと思います。正直者には越したことがありませんが、作者そのものが立派じゃないという例はいくらでもあるように思います。
一杯のかけそば、もりそばでは話にならないんでしょうなあ。